もし、
あの時、出掛けていなければ。
あの時、馬を降りなかったら。
あの時、水を飲んですぐに立ち去ってしまっていたら。
あの時、花を見つけなければ。
あの時、振り返らなかったら。
あの時、風が止まらなければ。
あの人に出会えたのは、奇跡。
これで人生の運を使い果たしたというのなら、
私はこれからの不幸を甘んじて受けよう。
あの人に、出会えたのだから。
<新しいままの鍵> プロローグ
剥き出しになった赤土に、生気のないまばらな草達。
乾いた風が頬に刃をつきたてる中、私は馬を駆っていた。
国へ帰っても、この広大な荒地にも似た乾いた生しかないというのなら、このまま地の果てまで駆けてしまおうか。
…そんな、馬鹿げたことを考えながら、地平線を見据える。
水に飢えきった大地が、そこまで続いていた。
ため息をついて、一休みしようと馬の手綱を引く。忠実なこの馬は、私の命に従って素直に止まった。
降りて空を見上げれば、灰色の雲が青空を見せまいと邪魔をしていた。
私は手袋を外し、その場にしゃがむ。土に触れれば、それは爪を突き立てることが出来ないぐらいに、硬くなっていた。
乾ききって、青空に見放され、果てまで続く、満たされない、触れられることさえ拒む地平。
誰かにそっくりだ。
と、私は思わず自嘲気味に笑ってしまった。
水筒の水を口に含む。決して、おいしいとは言えない。
ふと視線を他に移せば、岩の陰に弱々しく咲く花を見つけた。
こんなところで咲く花もあるのかと、私は興味を持ってその花に近づいた。
儚げな、小さな白い花だった。このまま雨が降らなければ、枯れていくのだろう。
なんとなく、本当になんとなくだが、私はその花にかれてほしくない気がして、水筒の蓋をあけると、中の水をかけた。
……私は、こうやって誰かの心を潤すことができるのだろうか。
否、と私はすぐに首を振ってしまった。そもそも、この花が潤ったかどうかなど、私にはわからない。ひょっとしたら、このせいで根腐れしてしまうかもしれない。
ただの、自己満足。
最後の一滴までかけてしまってから、私はすぐに立ち上がった。
振り返れば、雲の切れ間から柔らかな光が、差し込んでいた。
その光景に、私はほんの少しだけ救われた気がしながらも、十数分後にはもう国かと、ため息がまたしてもでてしまう。
憂鬱な気分の中、馬に歩み寄ると、彼は私の後ろの一点を見ているようだった。
何かあるのか、と思って、私は振り返った。
―――花びら?
私の背よりだいぶ高いあたりを、白いそれが優雅に舞っていた。
荒みきったこの大地の上を、たおやかに。
無駄と知りながら、私は思わず腕を伸ばしていた。
どうか、この手の中に舞い降りてはくれないか。
その願いはすぐに叶った。
吹きすさんでいた風が止み、白の舞い手は、私の掌に降りてきた。まるで、それを望んでいたかのように。
それは、一枚の羊皮紙だった。
家に帰ると、私は帰宅の言葉もそこそこに自室に足早に戻った。
手にした「花びら」を、とにかく確かな場所に保管しておきたかった。
花びらを机に広げて置き、棚の中から保管箱をとりだす。
気を静めようとゆっくり呼吸しようと努力したものの、どうしても気が急いてしまい、箱を持つ手が震えてしまう。
机の上で蓋をひらき、私は再び花びらをふれることを何度かためらってから、やっとのことでそれを保管箱の中に納めた。
私は深く息を吐いて、気を落ち着かせようと努力しながら、椅子に腰を降ろした。
天井を見上げながら、何度も深く息を吸う。
そしてもう一度、保管箱に手をやって―――、
蓋を、再び開けた。
失くなるはずなどないのに、そこに荒野で私に舞い降りた「花びら」があることを確認して、私は安堵の息を漏らした。
ゆっくりと、「花びら」を取り出す。
花びらの上では、流れるような美しい文字が、詩を詠っていた。
それは、この世の美を全て集めても、到底辿りつくことのできない極地。
繊細で、それでいて大胆な文字。1行1行が輝いているかのような詩。
また、手が震え始めた。
私は慎重にそれを箱に戻し、蓋を閉じる。
胸に手をやれば、服越しにも痛いほどに、高鳴っている鼓動を感じる。
私は、なんというものを手に入れてしてしまったのだろう。
私には、あの詩の美しさを表現する言葉がない。
世界中探してもないのではないだろうか。
否。あの詩を書いた本人には、その術があるのかもしれない。
まさに言葉の魔術師と言うべき方なのだから。
この詩を読んだのは、私と、作者だけなのだろうか?
作者…。
会えはしないだろうか。これを書いた方に。
結局私は、作者がどんな方なのだろうと、気になって落ち着かない頭のまま、ベッドで横になった。
まともに眠れるわけが、なかった。
翌日、私は地理に詳しい友人を家に招いた。
彼は私と同じ子爵で、幼いころから、家族ぐるみのつきあいがある。
事情を説明して、地下室の中央にあるテーブルで地図を広げた。
二人で地図を囲み、時間、太陽の見えた方向、風向き、馬でどれ程駆けた場所だったか…。
そういったことを分析しながら、あの花びらが来た地点を探る。
そうやって、薄暗い地下室で二人、延々と地図と睨みあった結果、だいたいこのあたりだというアテができた。それでもかなり広い範囲ではあるが、これだけでもありがたい。闇雲に探し回るよりは相当いいはずだ。
なんとしてでも、あの詩を書いた方に、会いたい。
私が友人に礼を言うと、「久しぶりに、あなたの目が輝くところを見たわ」と返された。
…たしかに、そうかもしれない。
いつからなのかはわからない。
心が揺さぶられ、行動せずにはいられないような……そんな衝動を、私は長い間忘れていた。
今はただ、この波に身を任せたい。
いけるところまでいこう。
これを逃せば、後先考えずに行動することなど、これからの人生でないだろうから。
1章に続く。
そこまで感動する詩を見てみたいものです。
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